ふたなりについて

――なぜ私達はふたなりチンポが好きなのだろう。

これについて考えたことはありますか、無くても大丈夫です。
ふたなりチンポが画面に跋扈し私達の股間を悩ませるとき、そこには少女がいます。少女ではなく筋肉質な女性な時もあります。
彼女達は擦ります、チンポを。
獣のように擦るとときもあれば控えめな秘する花のように致すときもあります。それは様々です。
私達はそれを目視し、股間をいきり立たせ、原始的な欲を解放します。
しかし何故なのでしょう、何故チンポがついた女性に興奮するのでしょう。
女性に興奮するのは分かります。
生命の目的は生きることと増えることで、増えるためには異性を求めなければなれません。
しかし、同性の持ち物であるチンポに興奮するのは何故でしょうか。
男女には隔たりがあります。
男である以上男の気持ちは男しかわからないしか逆も然りです。
射精する気持ちよさ、子宮口を突かれる心地よさ、私達はそれを互いに互いのを知ることは出来ません。
つまり私達は女性の絶頂を知ることは出来ないのです。
女性が絶頂を迎えても、私達はその心地よさ、快感を知ることが出来ない、よって、共感が出来ないのです。チンポが扱けません。しかし、女性が絶頂している姿を見たい、絶頂している姿でチンポを扱きたい。
そこでボロンと登場するのが“ふたなりチンポ”です。
男性器の絶頂なら知っている、なら男性器の絶頂を画面の中の女性の絶頂にすればいい……。
これは見事に成功し、瞬く間に広まりました。
私達にとってふたなりチンポというは共感するための装置なのです。

というか男はみんなチンポが好きなんだよ、気持ちいいから。親しみもあるし。簡単に言うとそれだけだと思うよ。